【FF14】暁月のフィナーレの感想_ゲーム体験と現代的ニヒリズム

FinalFantasyXIVの拡張パッケージ「暁月の終焉」ENDWALKERの発売からおよそ1か月、スクウェア・エニックスの公式Twitterよりメインストーリーの感想を歓迎するツイートがなされた。


本作は歴代の拡張パッケージの中でもメインシナリオには特に力が入れられており、「新生エオルゼア」から続く一連の物語の完結編とも言える内容でった。そのため、未クリア者が自身のプレイ前にストーリーを目にしてしまわないように、SNS等を通じた「ネタバレ配慮」が公式からもアナウンスされていた。
上記のtweetは事実上の公式ネタバレ解禁と見なせる。

今回は暁月の終焉ENDWALKERのメインシナリオの感想を述べたい。

※本稿には暁月の終焉ENDWALKERのストーリーに触れる部分が多くあります。未プレイ、未クリア者の方は閲覧に十分ご注意ください。









 

ハイデリンとゾディアークの物語とは何か

FFXIVの物語は、一見して単純な勧善懲悪であるかのように幕を上げる。
世界を混乱させる蛮神と秩序を作る連合エオルゼア。
住処を攻撃する竜と領民を守るイシュガルド。
領土を侵略する帝国と略奪されたものを取り返そうとするドマ。
世界を崩壊させようとする光の使途とそれを阻む闇の戦士。

そのすべてに関与しているのが、ハイデリンの加護を受ける光の戦士及び暁の血盟、そしてゾディアークの復活を望むアシエンらである。光の戦士とアシエンの闘いはハイデリンとゾディアークの代理戦争でもある。

「新生」において、アシエンらは帝国を陰から操る黒幕のように舞台に上がる。イシュガルドやドマ、第1世界においても同様に、彼らは強力な力と不死の能力で世界を混乱に貶めていく。
しかし各国で起こる戦争の真相が明らかになると、アシエンらの行動はあくまできっかけに過ぎなかったことが分かる。それらをより大規模化し、多くの犠牲者を出す非人道な道へと進めていったのは、人間であった。
同時に、光の戦士や暁の頼もしい味方と思われたハイデリンも、目的や存在が不明確となっいく。頻繁に行われていた交信は回数が減り、力の発揮には犠牲が伴うことが明らかとなった。

反対にアシエンらは、能力的にも感情的にも限界があることが示されていった。それぞれには異なるバックボーンがあり、故郷や時代を愛する人間的な情が隠れていた。世界にとっての敵だと思われていたアシエンらは、「漆黒」において完全に様相を変える。

 

ではもし彼らが悪でないならば、彼らがゾディアークを使って招こうとしている「終末」とは何なのか。そしてそれを阻もうとするハイデリンは正義であるのか。彼らの闘いの表で舞台に立っていた人々の営みには、どんな意味があったのか。
暁月の終焉その問いに一つの答えを与える。

光の戦士たちにとっての最後の敵

エルピスにおいて光の戦士が追体験した事実によれば、アシエンらの時代で発生し、原初世界で現在起きつつある終末は、「デュナミス」というエネルギーに由来している。「デュナミス」は人類が使用しているエーテルより強力なエネルギーとなる可能性があるが、生物の「想いが動かす力」と言われる。扱う生物の希望や絶望といった精神によって起きる現象が変化する、不安定なものだという。
このデュナミスを強く持った存在が、宇宙の生命の存在に対し強大な絶望を抱き、その絶望を解決する手段として宇宙の終焉を願ったことが「終末」の直接の原因であった。

この「終焉を謳う存在」は、エオルゼアがある惑星アーテリスのみならず、宇宙空間に存在する知的生命体や文明を数多く見送った結果、こうした結論へと至った。
それは人間同士の終わらない争いの歴史であったり、惑星や宇宙のもつ物理的寿命の発見等であった。
生物が懸命に生きたとしても、争いは消えない。未来に受け継いだ命があったとしても、宇宙はやがて消滅する。どんなに高度な知性や存在であってもそれを避けることができない。だとしたら人や生き物が辛い思いをして生きる意味はいったいどこにあるのか。

生きることに意味がなく、終わりが避けられないのであれば、絶望に苦しむ前に存在を消すことが安らぎなのではないか。死という安らぎを迎えても、また別の生命として命が循環すれば、苦しみをただ繰り返すだけである。そうであれば、生命の循環が終わるまで、生き物の存在の変化を進めることこそが、彼らにとっての真の安らぎに違いない。
「終焉を謳う存在」は観測の結果をそう結論付け、絶望を抱いた生命の変化を加速させていた。
この存在には形式上の人格を与えられてはいるが、結論を出したのは観察を行う端末としての機能だという。したがって、そうした終末思想こそが「終焉を謳う存在」の正体であり、光の戦士たちにとっての最後の敵であったといえる。

これは、アシエンらがゾディアークを使って世界を統合し、彼らが生きていた時代の世界を取り戻したとしても、絶望の原因を取り除かない限り終末は避けられないことを意味する。暁やエオルゼア同盟がいくら蛮神を倒し事件を解決したとしても同様と言える。「絶望を願う存在」に絶望以外の解答を示せない限りは、終末は避けられないだろう。

「漆黒」までは、世界の統合を果たし原初の世界へ帰ろうとするゾディアークと、統合を拒み現在の生命を生かそうとするハイデリンという、いわば過去と現在という対立図式であった。
「暁月の終焉」において、それは命の終焉と生命の肯定という対立図式へと物語が進んでいく。
光の戦士とアシエンら古代人たちは、終末を避けるという共通の目標のために手を取り合い、「終焉を謳う存在」に生命の可能性を示すのだった。

ニーチェの予言した神の死、末人たち

人間の生命や存在に対して確かな価値を見出すことができず、孤独と諦念苛まれ、深い絶望のうちの生きる意味を見失ってしまう。こうした生の虚無化はかつてフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)が唱えたニヒリズムを思い出ささせる。
近代以前の社会においては、人は宗教や神を最高の価値観と見なし、個人の精神的な支柱であるとともに社会との繋がりの基礎としていた。

しかし科学技術を始めとした知識の進歩により、物質的観測のできない宗教や神は、人間によって作られた「神話」に過ぎないと内実を暴かれていく。近代社会をこのような魔術からの解放のプロセスとしてとらえた場合、人は確かに宗教や神の固定観念から自由になった。


一方で、それまで神から与えられていた人生の意味を、自らの手で見出さなければいけなくなった。ニーチェは、それは人にとってあまりにも重い試練だという。自身によって生きる意味を見出す過程に疲れ、傷つくうちに、人間はやがてやがて自分で考えることをやめ、真理に疑問を持たず、退屈な生の中で安楽のみを求めるようになる。ニーチェはこうした人間を「末人」と呼び、世界の大多数となることを予言した。

「終焉を謳う存在」と対決するために、光の戦士たちは宇宙の彼方へ向かう。そこでは、既に絶滅してしまった星々の生命との対話が行われる。
彼らはアーテリスに住む生命よりもはるかに優れた能力や知性、科学技術を持っていた。しかし発展の末に行きついた結論はどれも、生きることの無意味さであり、宇宙の終わりに対する諦めだった。
これはまさにニーチェの予言した「末人」たちを思わせる。

ニヒリズムの行きつく先

こうしたニヒリズムが重度に進行すると、苦しい現在から逃避するために、自分たちの生きる現実を誰かに終わらせてほしいという願望が切実なものになる。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーによれば、近代以前の社会の権力は人の命を奪う性質に特徴があった。しかし、近代以降の権力は人を生きさせる権力、「生権力」という特徴がみられるという。
現代社会においては、確かに私たちの体は様々な手段で検査され、体重や健康を適正に保つことが「良いこと」とされる。メディアや保険会社は健康寿命を維持し、健全に生きることを美徳とし、そのための商品や価値観を喧伝する。
2019年のパンデミックをめぐる議論では、ワクチンの接種は半ば義務となり、感染を抑える「自粛」を外部から要求され、周りに迷惑をかけないリスクの低い個体として生きることが望まれた。

生きるためには多くの人は働かなくてはならず、人と関わり、あるいは人と関わらることができずに、時には辛く苦しい思いもしなければならない。未来に本当に希望があるかどうかも分からず、かといって逃げ出すことも簡単ではない。パンデミックや大型震災という力に対し、人間の力はあまりにも小さい。

こうした状況の中、自身の辛さを誰にも共有することができないうえに、自分でそれを解決することもできないのであれば、人は何を望むだろうか。自分以外の誰か、より大きな存在によって、全てを終わりにして欲しいと願う他ない者が現れても不自然ではない。フーコーはニーチェと同様に、近代社会において「人間の終焉」を示唆した。

 

終末の到来を呼び寄せる加速主義

ニーチェは19世紀のドイツの哲学者であり、「神の死」は直接的には当時のキリスト教の勃興と社会の変化を捉えた概念だと考えられる。しかし、彼の予言したニヒリズムは、その形を変え、現在でも世界中で発見することができる。

ニヒリズムの現代的な理論の一つに「加速主義」がある。それはイギリスの哲学者ニック・ランド(1962-)を中心に理論化され、主にアメリカの政治運動などを中心に論じた。


彼によれば、国家の役割を最小化し、企業の競争を積極的に支援することを目的とした新自由主義資本主義は、企業の生産力を拡大した一方で、富の偏在、貧困、格差拡大といった社会的矛盾を深刻化した。
社会を豊かにするはずの工業やICTを始めとする技術革新は、その矛盾の拡大のスピードを加速させてもいる。
共産主義思想等、資本主義社会に代わる代替案を提出するはずであった思想は、資本主義の代わりとなることはできなかった。


社会の矛盾に苦しむ人々は、今ある社会で逆転をすることも、別の形の社会を描くことも難しい状況にある。
そうであるならば、資本主義社会に代わる社会体制を提案したり、資本主義以前の社会へ戻ることを望むのではなく、むしろ技術による社会変革を加速して、現在の資本主義社会の終焉した先に解決を見出そうとするのが、加速主義の基本的な考え方と言える。

これは政治的運動への考え方である一方で、ニーチェ的なニヒリズムの変奏系でもある。今現在生きている世界の在り方に大きな疑問や矛盾を感じる一方で、それを人間の手によって形を変えたり、過去の良かった姿に戻すことは不可能に近いという、ある種の諦めをも同時に抱いているからだ。
その先に目指しているのはある種の「終焉」であり、むしろその終焉を望んでいるかのようにも思える。
これは、どこか宇宙の果てで終焉を望んだ存在達、そして「終焉を謳う存在」を思わせる。

暁月の終焉が目指したもの

FFXIVのメインストーリーが、賛美両論含め、これほど世界で受け入れられたのはなぜか。その背景には、こうした時代的精神性との共感があったに違いない。
生に目的を与えてくれる神が不在になった世界で、一人で生きていくことの孤独や不安、退屈を抱えて人はどこへ行けばよいのか。光の戦士たちが「終焉を謳う存在」へ提示した未来は、その一つの解答を目指していた。
ゲームの体験を通じて、世界中のプレイヤーへその問いと答えを伝える。これこそが、ハイデリンとゾディアークを巡る10年の物語で目指した挑戦だったのだと思う。

暁月では、メインクエストに同行や尾行といった新たな要素が加えられた。クエスト中に何度も繰り返され、プレイに定着していく中、メインシナリオ最後の同行によって、その意図が体験される。同時にENDWALKERという副題の意味が、プレイヤーによって明らかにされる。
同行や尾行について、エンターテイメントとしてのゲーム性からは、進行のテンポを気にするユーザーもいるかもしれない。また、絶望を経験した故の希望というテーマであるがゆえに、暗く長いストーリーが続くことに、時には疲れてしまうプレイヤーもいるかもしれない。

しかしここまで考えてきた私たちには、これらをただのゲーム要素と割り切ることはできない。
これは、暁との旅を通して光の戦士が「終焉を謳う存在」への答えを見つけるというプロセスを、ゲームを通じてプレイヤーに体験してもらおうというチャレンジだったのだろう。

こうした工夫が、ゲームの感動を高める効果として十分であったかどうかは、それぞれのプレイヤーの感性に委ねられるだろう。
一方で私は、RPGというジャンルの中で新しいゲーム体験の経験を目指した、重要な挑戦だと思う。

これは1990年代の黄金期のRPGを彷彿させる。
90年代RPGは、ストーリー等のゲーム体験を通して、まだ誰も経験したことがないような感動を与えようという作品が、大なり小なり多く存在した。しかし、ソーシャルゲームなどのインスタンスな遊びが流行を強めていく中で、こうした工夫は次第に見られなくなっていった。
FFXIVは、その挑戦的な姿勢を、現在の時代の精神を捉える形で目指している。

暁月が終焉にいたっても、FFXIVの次なる冒険はすでに準備がされているという。
彼らの挑戦がどのように歩むのか、一プレイヤーとして、これからも行く先を見守っていきたいと思う。

 




参考
ニーチェ(著),氷上英廣(訳),『ツァラトゥストラはこう言った』,岩波文庫
岡本裕一郎(緒),『ポスト・ヒューマニズム: テクノロジー時代の哲学入門』,NHK出版新書